The Day Boundary Changes

 

 

国境線という単語に最も相応しい形容詞は何だろうか?

横暴な、静謐な、傲慢な、寂寞な、暴力的な、温厚な、気まぐれな、不可解な―

合わせる形容詞によってだけでも露骨にその色を変えてしまう程、地図上に描かれた国境線はその形状だけでは何も伝えるものを持たない。一つの線に過ぎないそれらの形状が何かを伝える時は、いつでもその線が作り出されたそもそもの原因―その歴史的経緯が語られる時だ。

韓国、北朝鮮両国をかつて分けていた国境線、通称「38度線」は、第二次世界大戦中に朝鮮半島に攻勢を仕掛けたソ連に対するアメリカの譲歩案として決められたもので、そこに住む民衆の自発的な意思決定によって制定されたものではない。最終的な案はディーン・ラスクとチャールズ・H・ボーンスティール3世と言う2人の大佐によって決定されたと言う。1942年当時、朝鮮半島に居住していた人口は2553万人。彼等の運命を70年以上、21世紀の今に至るまで分けた国境線の画定に割かれた時間は、たったの30分であった。

アフリカ大陸には、その大陸が持つ神秘と混沌に真っ向から反するような、まるで設計図の図面を作る時のように定規で正確に切り取られた見事な直線の国境線がいくつも存在する。それは植民地時代列強諸国が、現地の民族構成や地形を精査する労を厭った結果の産物だった。その結果一つの民族が分断されたり、異なる民族が一つの国家に同居する結果となり、今に至るまでのアフリカ諸国の混乱の一因となっている。

誰もが生涯1回は手に取るような地理の教科書でも、歴史の教科書でも、そのような形で、「何故その国境線がそのような形をしているか?」ということに関しては語られてきた。それはどの世界地図を見ても図示される「国境線の形状」というシンプルな存在に対しての、シンプルな解答であり、その解答は国家の数の限り、国境線の数の限り存在していた。そしてその解答の多くには、政府を中心とした、力を持った人間の営み、力を持った人間が起こした歴史的事実が付随していた。

しかし、その人為的な行為によって本質的に生活を左右された、「その土地で普通に暮らしている」人達の物語は、十分に語られて来たのだろうか?中東やアフリカの国境線の画定に関して、当時の列強や政治家の思惑を語れる人間は今昔関わらずいくらでもいても、当時の、その場に暮らす人々の声を伝える物語はあまり聞いた記憶が無い。

1884年のベルリン会議でアフリカの植民地分割の基本的方針が画定され、広大なアフリカの大地が当時の列強国によって直線的に「裁断されていった」時、それを知ったアフリカに住む人間は何を感じていたのか?

その後20世紀に入り、2次大戦後にはアフリカ諸国が次々と独立を果たし、その独立が世界中で歓喜を持って迎え入れられた時、自然界の摂理に反する様に異常な程直線的に引かれた国境の側に住んでいた人間は、その歓喜を共有していたのだろうか?

彼等の、語られるべき物語は十分に語られることも無いまま歴史の渦の中に埋没し、それに代わる様に戦乱や飢餓と言ったセンセーショナルな物語が彼等が日々暮らす地域において語られている。

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2015年6月8日、日本から遠く離れた南アジアで、1つの国境線が再画定されることが決定した。