だけども山道を2時間は下り、漸く辿り着いた風景には恐怖感すら覚えた。多くの時間僕はただただ呆然と立ち尽くしていた。ちょっとした思案に耽ることすら出来なかった。
「畏怖」という、これ見よがしに恐れきっている感が出てるような熟語が、その時の感情を表現する言葉としては相応しいし、それをこの場所に当てはめる事が、そこを訪れた異邦人としての振る舞いとして礼儀にかなってる様にすら思えた。
「大自然の存在を認識することで人間の卑小さが露になる」といったような言説はもう既にパッケージング化され、スーパーマーケットに整然と陳列されていてもおかしくないぐらい手垢の付いたものになってしまった。だけれども、人が手を加えた自然に別の人間が畏怖を覚える、という体験は、少なくとも自分にはその時まで一回も無かった。
そして今この文章を書きながらそれも既に4年前になったことに気付く。改めて畏怖ということについて考える。この年齢を迎えた。自分も決して若くはない。まだ自分はそんな感情を生み出すことが出来るのだろうか。と。